「さぼてん」
西山ヤスヒロ
死は存在しない。
生きる世界が変わるだけだ。
ドゥワミッシュ族の格言より
プロローグ
静かだった。
こんなにホッとした気持ちになるのは随分久しぶりだ。
私は地面に寝転がり、仰向けで空を見上げていた。
そこには無数の、白いカケラが舞っている。
濃い灰色をした雲から、夥しいほどの切片がふわふわ降り落ちてくるのだ。
つめたい……
羽毛のようなそれらが顔に触れれば、当然そう感じるはずだったろう。
けれども私の感覚は正常ではなかった。
いや、そうではない。
その時にはすっかり感覚機能は停止していた、と言ったほうが正確だろう。
何も感じなかった。
そして――
何も聞こえなかった。
ただ――
世界は白きものに溢れ満たされ、静かだった。
どのくらいそうしていただろう……
ふと自分の横側で何かが動いた。
見ると、人がひとり……男だ。男がいた。
必死な顔。
私に取りすがり、何かを懸命に叫んでいる。
見覚えのある顔だ。
必死に私の躯を揺さぶっている。
だが、私にはどうしようもない……悲しいけれど。身体感覚、思考能力は停止状態に近い。まるで頭と躯の中に鉛を流しこまれたよう。思考は鈍り、躯は重い。ゆえに、ぼんやりと事態を見つめる以外何もできそうになかった。
記憶をたどろうとしてもたどれない。
言葉を聞きとろうにも聞きとれない。
木偶の人形になった気分……
私はふたたび空を見る。
どうにもならないものはどうにもならない。
風が強まったのだろう。空を、白い薄片が勢いよく流れている。無数の白い小羽が、斜めに吹きさらわれてゆく。
不意に躯が、浮遊感におそわれた――
今までどうしようもなく重かった躯。それが枷【かせ】を失い、自由を手に入れていた。
空だって飛べそうだ。
上体を起こしてみた。
軽々と動く。
今度はゆっくり立ってみる。
大丈夫だ。問題ない。
大きく息を吸ってみた。
どうしたというのだろう。
なぜ先ほどまで身動きひとつできなかったのか、不思議でならない。
私は男のことを思い出した。
後ろを振り返る。
――その瞬間、私はすべてを理解した。
「高梁【たかはし】さんっ! 高梁さんっ! しっかりしてっ*」
彼の発する言葉は、いつしか聞こえるようになっていた。
しかし――
私自身はどうにもならない状態のようだ。
私はただじっと、私を見ていた。
依然、そこに横たわったままだったのだ。
虚ろな瞳を宙に向けていた。
それを私が、見ている……
地面には白い小片が降り積もり、私の躯からは紅いものが大量に溶け出していた。私を中心に、放射状に、今もそれは這い拡がっている。
〈ああ……私は死ぬのだな……〉
恐ろしかった。
もう戻れない。
私は二度と、この躯に戻れないのだ。
気づけば躯が勝手に浮いていた。
何者かの見えない力が加わり、私は上空へ吊り上げられてゆく。
白い欠片たちはいつしか、落ち着きを取り戻していた。おだやかに風に吹かれている。
私は下を見た。
そこには私の失った躯、そしてそれに取りすがる男がいた。
〈ひとり寂しく死にたくない〉
切実に願う。
すると、男の躯がビクリと痙攣した。
慌てて辺りを見回している。
彼には私の願った言葉が届いたのかもしれない。
私はさらに上昇してゆく。
自分は引き返すことのできない旅路に就いているのだ。
もう一度下を見る。
見えない。もう何も見えなかった。
視界にはいるものといえば、眼前の、小さく白い踊り子たちだけだ。
それは――
飽くことなく続く、
白き花びらの舞踏【ダンス】。
第1章 麻衣
桜の花びらの舞踏。
花の盛りを失った薄紅色が、散り急ぐかのように舞い落ちてゆく。
今年も桜の時期が終わろうとしていた。
折からの強風が花びらの散りを急かせている。
「ここの桜も六度目か……早いものね……」
病院中庭に面した一階の渡り廊下を歩きながら、宇佐美麻衣【うさみ まい】が感慨深そうに漏らす。
春の麗らかな陽光が、廊下のはるか遠くまでリノリウム床に降り注いでいる。
K県立中央総合病院――
俯瞰すると、中央総合病院の病棟は北館、東館、西館がコの字を描いて接続し、桜の咲き誇る中庭を取り囲んでいる。南館は西館の南に細長く接続しており、ヒシャク形を成している。
北館は本館であり、各科外来窓口。
東館は施術手術等特殊処理病棟。
残る南館と西館が入院患者病棟だ。
麻衣は東館の南側から南館へと近道できる、一階の渡り廊下にいるのだった。
後ろで二つに結った髪を揺らし、軽やかに歩いている。発育は豊満なほうではなく、むしろ痩せ形の、幼い体型だ。しかし当人は、自分の躯つきをいたく気に入っていた。チェック地のスカートに淡い色のブラウスといった服装も似合っている。
南館に入り、南館北館接合部分にある階段室を上へ。三階に着くと、奥は霞んで見えないくらいの長い廊下を歩き進んでゆく。
やがて、特殊な理由による長期入院患者の個人病室が密集する辺りにさしかかる。
それぞれの病室がそれまでよりも大きくなっていた――それは、歩いていて入口扉の間隔が広くなったことでもわかる。
ある病室の前で、麻衣は脚をとめた。ドアレバーを廻し、扉を横にスライドさせる。
部屋の全貌が一度に視界に入ってきた。
一人用の寝台がひとつ。
傍ら奥には生命維持系統の機械装置が数種。
寝台に横たわる人間と生命維持装置が何本ものチューブで繋がっている。
その向こうには窓があり、厚手のカーテンが引かれていた。
殆ど光を通さないので、部屋の中は昼間だというのに薄暗いほどだ。隙間からの日光と常時点けっぱなしの室内灯、あとは生命維持装置モニターくらいしか光源はない。
麻衣は室内に入り、隅に置いてあったパイプ椅子を寝台そばに寄せた。腰を下ろし、そこで眠る病人の顔を覗きこむ。
ほの暗い室内でも、その顔は端整に、白く浮かんだ。
麻衣が、ほっとした笑顔になる。
どんなに仕事が忙しくとも、ここには毎日立ち寄ることにしていた。その習慣は、彼女が高校三年生にして、メディアを賑わすカリスマ催眠術師になった今でも変わりはしない。おそらく、これからもずっとそうだろう。
「あれからもう七年……三年寝太郎? 眠り姫? 何だっていいけど、いつまで寝てる気……? 正直、お姉ちゃんは、あんたの声さえ忘れちゃったよ……」
病人の生命が保たれている――そのささやかな証であるかのように、規則正しく呼吸音と機械音が繰り返されていた。
その響きに、なぜか麻衣は安堵をおぼえる。
波打ち際に寄せては返す波のように、永久不滅な営みのように、頼もしく感じられるからだろうか。
あるいは、人間を生かすために作動しているのではなく、自らも生きるためにその身を人間に供している機械の、切っても切れない『共生』関係を強く感ずるからかもしれない。
「待っててね、涼【りょう】……今日はまだ時間あるから、お姉ちゃん花を買ってくる……」
病室を出て、来た道順を引き返す。
南西の階段室を降り、西館一階廊下を突っ切って、そのまま北館へ。
北館一階の外来受付・総合案内フロアの混雑を横目に、脇にある院内の花屋へ向かう。
店員に見繕ってもらった花束を買い、抱きかかえると、店を出た。
麻衣は顔を伏せ気味にし、早足で歩いた。他人に気づかれまいと下にうつむいている。
麻衣が北館から西館にさしかかった。そのとき――
「――?」
背の高いのと低いのと――学校帰りらしき女子高生二人組と目が合ってしまった。
〈しまった……!〉
麻衣は急いで目を逸らせたが、時すでに遅し。
〈気づかれた……?〉
彼女たちは互いにひそひそと言葉を囁き交わしている。明らかに話題は自分だ。
麻衣は素知らぬフリを装い、急ぐ。
と、二人が猛然と駆け寄ってきた。
フロアに溢れる、人の列や群れをかき分け、麻衣も小走りになる。
〈ここでは注目を集めてしまう……離れないと……〉
走りだす。
人陰まばらな西館一階を、逃亡者と追跡者が駆けてゆく――
追いつかれないように、そして花を折らないように注意しながら、麻衣は二人を西館南館の接合部へと誘いこんだ。
南館に入ると早足をゆるめ、背後を振り返る。
「何か、御用?」
もう慣れたとはいえ、麻衣はうんざりしていた。
背の低い方は何も言わない。交渉担当は背の高い方のようだ。
「あ、あの……『言いなりよん♪』のMYさんですよね?」
『言いなりよん♪』とは、かつては麻衣が超絶女子高生催眠術師としてブレイクするきっかけとなった、ある番組内の一コーナーを意味し、現在はそれが昇格して高視聴率番組のひとつとなった『MYの言いなりよん♪』を指していた。
「……そうですけど……」
声と視線にとびきりの冷ややかさを込めたのに、彼女たちはそれを全く意に介していなかった。
- 2009/06/28(日) 22:49:53|
- 怪奇・幻想
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一生現役創作小説家――
それが私の生き方です。
いろいろ考えましたが、小説を書くことが私には一等相応しいようです。
小説新人賞に応募するための小説を、このブログに掲載することを励みに、創作します。
完成したら、その作品は一旦消去します。
応募し、残念にも没になった作品を、バックナンバーとして置いてゆきます。
いつでも読者様が読めますように。
そのときそのとき懸命に書いた作品たち――
どうか読んでいただけたら、これに勝る喜びはありません。
――稚拙な創作家に不動明王の御加護あらんことを。
のうまく さんまんだ ばざらだん かん。
平成二十一年六月二十三日 西山ヤスヒロ
- 2009/06/23(火) 22:09:47|
- 西山の言
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